美女が待っているのは自分の夫か不倫相手か、それとも…
【第3回】美女ジャケはかく語りき 1950年代のアメリカを象徴するヴィーナスたち
■美女の瞳に映るのは自分の夫か不倫相手か
冒頭で紹介したジャッキー・グリーソンの「music for the Love Hours」 では、ナイトウェアを着た女性が煙草の火を待っている。ライターを差し出す男の袖を見るとこちらもナイトガウンらしい。
でも、これ、夫婦に見えるだろうか? 恋人同士? いや、こんな挑戦的なまなざしで恋人を見ないでしょう。となると、そこはかとなく匂ってくるのは「不倫」とか、その手前の恋愛遊戯なのだ。
だからこのジャケットはとてもいやらしい。
1957年、まだサバービアの生活様式が盤石だった時代なのに、どこか崩れ始めている感じがする。
ジャッキー・グリーソンは「夜もの」と呼ばれる、夜のとばりに包まれ静かでロマンティックな、どことなく官能的な音楽の第一人者として大人気だった。彼のアルバムには夜をイメージさせる絵柄が多い。シャンパングラスと灰皿、カクテルグラスと煙草とか。それは落ち着いた大人の世界であった。
ところが1956年のアルバム「Night Winds」になるとまったく落ち着いてなんかいられない。なにしろ林の中で男が木にもたれ、煙草を片手に待ちくたびれているようなのだ!
女性は薄物のネグリジェ姿。こんな格好で夜中に林に行ってよいものだろうか? しかも髪に手をやって、「あぁ、あなた!」とでも言ってそうな気配だ。さらに、右の肩紐がずれ落ちているではないか。
男は余裕で女を眺めているが、女は逡巡あってこの場に来た風情ありあり。
これを「不倫」の現場と想像するのは、妄想しすぎと言われるかもしれないが、でも、そんな妄想をかき立てるような物語が潜んでいそうな写真ではある。
冒頭で書いた和物セクシー・ジャケと美女ジャケの大きな違いは、こうした「セット」に対する予算のかけ方、凝りかたの違いがまず第一。そして、背後に潜む物語性の有無だ。ただのヌード・ジャケには物語は少ない。だが、薄物一枚着ただけの夜の林の美女には、うかがい知れない物語が潜んでいそうなのだ。
この2枚はどちらも大手のCapitolレコードの作品。Capitolはインハウスのデザイナーやカメラマンを抱え、セットから撮影まで凝りに凝った作品をリリースし続けた。フォントの選択も配置も完璧だ。
そしてディレクターなり、プロデューサーが企画を決め、アルバム・テーマから喚起されるようなドラマを一枚の写真のなかに盛り込んだ。そうやって素晴らしい完成作品をつくったら、のちの時代から見るとサバービアの不調和、倦怠が集約されているようなジャケットができあがってしまった。「時代の気分」というのはこういうものなのだ。